江戸時代が始まりといわれる歌舞伎にとって『家系』は大切な要素です。また成田屋や高麗屋などの『屋号』という区分もあります。ややこしい印象もある家系や屋号についての理解が深まると、歌舞伎の楽しみ方が広がります。
歌舞伎の誕生は江戸時代
歌舞伎の始まりは江戸時代にまでさかのぼります。歌舞伎には、市川家、中村家といった家系が数多くあり、『襲名』(しゅうめい)というしくみがあります。襲名とは、師匠や親の名前を引き継いでいくしくみです。
代々家系の中で引き継がれ、江戸時代から続く名前も多くあり、代々引き継がれる名前を『名跡』(みょうせき)といいます。ここでは、歌舞伎の家系と役者の名前の引き継がれ方について見ていきましょう。
歌舞伎の家系とは
歌舞伎の家系というのは、いわゆる『屋号』のことです。歌舞伎では、屋号とともにその家の芸風や、お家芸、十八番を継承していきます。そのため、歌舞伎の格式も屋号によって決まるといって良いでしょう。
家系で格が決まる
長い歴史と数々の実績から、最も権威のある家系といわれているのが、市川海老蔵がいる成田屋の市川家です。
市川家と同様に、江戸時代から続く中村家も、名門の家系の一つですが、役者の名前ではなかったため、市川家とは位置づけが異なります。
成田屋のほかには、松本幸四郎の高麗屋、尾上菊五郎の音羽屋、中村勘三郎の中村屋、中村歌右衛門・芝翫の成駒屋などがあります。主役を演じる家系と脇役を演じる家系があり、主役を演じる家が格上となります。
血縁者しか継げない?
通常、歌舞伎役者の名前を継ぐのは実子の場合が多いですが、血縁者しか名前を継げないわけではありません。
名門の役者に跡継ぎとなる実の子どもがいなかったり、実子が女子のみの場合は、役者の兄弟に襲名させたり、兄弟の子供を養子に迎えたりすることがありました。
場合によっては、優秀な弟子を養子にしたり、弟子の家から養子を迎えたりすることもあり、全く血のつながりのない人が名跡を継ぐというケースもあります。
江戸時代に生まれた名跡が現代まで耐えることなく残っているのも、このような工夫をしてきたからです。
家系図で見る名跡と屋号の関係
歌舞伎といえば、演目の時に観客から「○○屋!」という大きな掛け声がかかることがあります。江戸時代から続く屋号や名跡は、歌舞伎役者にとって、看板の役割を果たし、伝統や芸風を次の代へと受け継ぐ大切な役割を果たしています。
例えば屋号が成田屋でも、姓が市川というように、歌舞伎役者の姓と屋号は全く別のものです。同じ姓でも屋号が違う場合もあれば、違う姓でも同じ屋号の場合もあります。歌舞伎役者の姓と屋号、名跡の関係について詳しく見ていきましょう。
屋号や名跡について
歌舞伎の屋号は、歌舞伎が始まった江戸時代、歌舞伎役者が幕府に良民と認められて、街の表通りに家や店を建てられるようになった時に、商人を真似して屋号をつけたのが始まりといわれています。
また、歌舞伎役者の名前の多くは名跡といって、芸風や演目と共に、代々受け継がれていきます。名跡の中でも、市川團十郎などの代表的な名跡の場合は、段階的に複数回の襲名を経て團十郎という名前を襲名することになっています。
屋号で芸風がわかる
歌舞伎の屋号は、役者が受け継ぐべき芸風と伝統を表しています。屋号は役者の姓とは別にもつ看板のようなもので、代々その家に伝わる芸風を表わすとても大切なものです。
中村吉右衛門、中村勘三郎、中村歌右衛門は、同じ中村ですが、それぞれの屋号は、播磨屋、中村屋、成駒屋です。屋号が違うため芸風が異なります。
市川海老蔵、市川猿之助、市川左団次も、姓は同じ市川ですが、それぞれ屋号は、成田屋、澤瀉屋(おもだかや)、高島屋です。
家族でも姓が異なる理由
歌舞伎役者の名前は、同じ屋号であれば、通常は姓が変わることはありません。市川團十郎家では、市川新之助、市川海老蔵、市川團十郎と姓は変わらず、名前だけが変わっていきます。
しかし、高麗屋のように、同じ屋号なのに姓が異なる場合があります。高麗屋の松本幸四郎家では、松本金太郎・市川染五郎・松本幸四郎の順で襲名していくため、松本と市川の2つの姓があります。
同じ屋号なのに姓が変わるのは、歌舞伎の歴史の中で、名前が絶えることを防いだ名残です。
また家系独自の芸風や伝統を重んじるのが屋号ですから、指導を受けた師匠の違いなどによって、同じ一族でも兄弟で屋号が異なる場合があります。また同じ名跡を代々継承していくうちに屋号が変わるという場合もあります。
著名な歌舞伎の家系1 成田屋
歌舞伎界の中で、もっとも由緒ある家系といわれるのが成田屋です。歌舞伎界のトップスターである市川海老蔵がいる成田屋の、屋号の理由や名跡の継がれ方、澤瀉屋との関係について見ていきましょう。
別格といわれる市川家
市川家が別格といわれる理由は、成田屋が市川宗家といわれるほど長い歴史があり、数々の功績があるためです。
市川一門には、市川海老蔵、市川新之助、市川三升の名跡があり、歌舞伎界で圧倒的な人気をほこる十一代目市川海老蔵は、市川宗家の御曹司でもあります。
屋号である『成田屋』の由来は、子宝に恵まれなかった初代の市川團十郎が、成田山新勝寺に子宝祈願を行ったところ、二代目を授かることができたという出来事に由来します。
市川宗家の家系図
市川宗家である團十郎の名跡は十二代まで引き継がれて、現在は空席となっています。
初代市川團十郎は、堀越重蔵の子であり、妻・栄光尼との間の子が二代目市川團十郎です。三代目と四代目は、いずれも養子として迎えた子供が市川團十郎の名跡を継いでいます。
五代目は、四代目市川團十郎と、妻であり二代目市川團十郎の姪である、いぬとの間に生まれた子が市川團十郎の名を継ぎました。
六代目は養子が團十郎の名跡を継ぎ、七代目は、五代目市川團十郎の次女の子が継いでいます。八代目は七代目の長男が継ぎ、九代目は七代目の五男が市川團十郎の名跡を継いでいます。
十代目、十一代目は養子が市川團十郎の名前を継ぎ、十一代目の長男が十二代目の市川團十郎で、十二代目市川團十郎の子どもが、現在の市川海老蔵です。
澤瀉屋との関係は?
澤瀉屋は、二代目市川段四郎(初代市川猿之助)の生家が、副業として薬草の澤瀉(おもだか)を取り扱う薬屋だったので、澤瀉屋を屋号にしたといわれています。
二代目市川段四郎は元々、九代目市川團十郎の弟子であり、のちに成田屋の番頭格となりました。しかし二代目市川段四郎が市川宗家の十八番だった『勧進帳』を断りなく演じたことで、宗家から破門になったという歴史があります。
著名な歌舞伎の家系2 中村屋
成田屋に続く、著名な歌舞伎役者の家系といえば、中村屋です。現在は六代目中村勘九郎と、二代目中村七之助の兄弟が人気の歌舞伎役者として活躍しています。中村屋の誕生から、名跡の引き継がれ方を見ていきましょう。
初代中村勘三郎
初代中村勘三郎は、江戸時代初期の歌舞伎役者で、現在の名古屋市中村区辺りが生誕の地といわれています。
十八代目中村勘三郎は、中村区を『中村屋発祥の地』としてとても大切にしており、2006年には中村区の同朋高校体育館で『平成中村座』を演じています。
そのつながりから、2017年には、名古屋市中村区中村公園に、初代中村勘三郎の生誕像が建てられることになりました。
家系図は?
六代目勘九郎、二代目七之助の曽祖父にあたるのが、六代目尾上菊五郎で、妻・千代との間に生まれた娘と結婚したのが、十七代中村勘三郎です。
十七代中村勘三郎の子どもが十八代中村勘三郎です。その子どもが、六代目中村勘九郎と、二代目中村七之助の兄弟です。
また六代目勘九郎と二代目七之助兄弟の母方の祖父は、七代目中村芝翫で、人間国宝にもなりました。
中村屋の代表的名跡
中村屋の代表的な名跡といえば『中村勘三郎』です。元々、中村勘三郎という名前は、中村座の座元(劇場の支配人)が受け継ぐ名前でした。しかし、明治時代に芝居小屋の経営が様変わりすることで、中村勘三郎の名前は一度絶えてしまいます。
時は1950年、時代は昭和に変わり、中村勘三郎の名前を復活させたのが十七代目で、その名跡は、息子である十八代目中村勘三郎へと引き継がれました。
著名な歌舞伎の家系3 高麗屋
高麗屋の代表的な名跡は『松本幸四郎』です。松本幸四郎の歴史は古く、2018年の襲名披露によって、現在の松本幸四郎は十代目になります。
高麗屋はどのようにして生まれ、松本幸四郎という名跡はどのようにして引き継がれてきたのか、具体的に見ていきましょう。
大名跡となった松本幸四郎
初代松本幸四郎は1674年に生まれ、10歳の時に小間物屋の高麗屋に奉公することになりました。
その後、江戸に出て久松多四郎の門に入り、最初は松本小四郎と名乗ったのが始まりです。1710年には幸四郎と改名し、1722年に弁慶の当たり役が大好評となったことから、弁慶の上演回数は千数百回に及びました。
2018年1月には、歌舞伎座で37年ぶりに高麗屋の三代襲名披露が行われ、七代目市川染五郎が、十代目松本幸四郎の名跡を継ぎました。
家系図は?
2018年1月に行われた高麗屋の三代襲名披露において、四代目松本金太郎が八代目市川染五郎を襲名しました。
八代目市川染五郎の父は、現在の十代目松本幸四郎です。松本幸四郎という名跡は、七代目以降は実の息子へと引き継がれています。
家系について知ればより歌舞伎を楽しめる
今回取り上げた家系は、歌舞伎界の中でも代表的な家系です。ここで取り上げた家系以外にも、歌舞伎には多くの家系と名跡があります。家系には歌舞伎が始まった江戸時代から、受け継がれているものもあれば、比較的新しい家系もあります。
それぞれの屋号や名跡の歴史や関わりを知ると、歌舞伎をもっと奥深く楽しめるでしょう。