ユトリロの描くパリが寂しげなわけ。破滅型画家の描いた白い街並み

2019.10.18

19世紀末から第2次世界大戦後までパリで暮らしたモーリス・ユトリロは、その生涯を通じてパリから離れることはなく、パリの街並みをひたすら描いた作品を残しています。どこか寂しげなマニア受けすると言われる彼の作品の魅力を紹介します。

20世紀初頭のパリを数多く描いた画家

ユトリロの作品は、どこか懐かしいパリの街並みや建物を描いています。レンガづくりのでこぼこした道、飲み屋のしっくいの壁、遠くに見える寺院の塔、そして曇天の空…。華やかな観光名所とは違い、一見どの街かわからないような通りや建物の姿は、それでも鑑賞者の心に深く印象を残します。

本当のパリよりもパリらしい空気感

印象派の影響がまだ色濃く残っていたパリの美術界。ユトリロも、その影響をうけながら、独自の表現を追求します。彼が30代の頃に描いた「白の時代」とされる白を基調とした作品群は、実際のパリの街並みよりも、人影も少なく虚無的でクールな印象。

その後「色彩の時代」と呼ばれる後年の作品では、多少の色味は加わったものの、やはり寂しげな印象が残っています。

遠近法のきいた道は孤独の象徴?

寂しげな印象が起きるのは、建物や道の描き方のため。落書きなどが残された薄汚れた壁や寂寞とした通りをリアルに描き、特段美しくないものを、そのまま表現している描き方をしているから。

また、遠近法を使って、画面奥に向かって行く小道は、どこへ行くかわからない不安さを醸し出していています。そして、この道の表現は、彼の孤独感の象徴とも言われています。

意外と長寿だった破滅型の天才画家

彼の作品は、彼の出生と激しい生き方と深く関係しています。その人生を変えることなく、そのままパリで生き続けた彼の人生を振り返ります。

モンマルトルで私生児として生まれて

ユトリロの母、シュザンヌ・ヴァラドンも画家でした。もともとは、パリの酒場などを転々として働いており、その後美貌が認められて、あのルノワールやロートレック、ドガのモデルもつとめたのです。その影響もあってか、後年になると絵をかきはじめましたが、私生活についてはかなり奔放な女性だったようで、数々の男性と恋愛をし、ユトリロの父も誰かはっきりしていないほどだったといいます。

そんな奔放な母シュザンヌはユトリロを自分で育てることはせず、母(ユトリロにとって祖母)に預けました。母の愛情を知らずに育てられたユトリロは、孤独の中で成長し、17才になったときにはすでにアルコール中毒だったなど、荒廃した環境で育ちました。

アル中とうつ病で入退院を繰り返す

じつは、ユトリロが絵を描き始めたのは、アルコール中毒の症状を緩和させるため。きまぐれで絵画を教えた母も、彼に才能があるとは思っていませんでした。 その後もなんども精神科の病院に入れられ、外に1人で出られないとときは、絵葉書を渡されて絵を描いていたといいます。それでも、絵葉書を元に独自の構図と表現をしながら絵を描き続け、生前に少しずつ絵が売れるようになっていました。

通好みと言われるその秘密

同じエコール・ド・パリ(1920年ごろ、パリ・モンマルトルに住んでいた画家集団。ヨーロッパ各地から画家を目指す若者たちが切磋琢磨していた)の中でも、マイナーで通好みといわれるユトリロ。モディリアーニやシャガールといった派手さはないものの、その人気の秘密を紹介します。

孤独感と不安定さが漂う画面

彼が生きた時代のパリは、世界中のアーティストが憧れた街でした。その姿を、あえて息をひそめたような寂寥感あふれる描き方をしています。誰もが心に抱く不安感や寂しさ、自分が何者かわからない焦りなどが、描いた彼の気持ちとシンクロするのでしょうか、地味ながらも人気があり、世界中の美術館でユトリロの作品は所蔵されています。

ポーラ美術館のコレクション

日本では、神奈川県箱根にあるポーラ美術館のコレクションが有名です。印象派の数々の名品を所蔵する美術館ですが、ユトリロの「白の時代」の作品は十数点所蔵しています。

ユトリロの描く、何気ないパリの裏通りやモンマルトルのしらっちゃけた空を鑑賞してください。

ポーラ美術館:公式ウェブサイト

ユトリロの絵は、あとからじわじわくる!

派手さもなく、哀愁感漂うなんでもない風景画に見えるユトリロの作品。実際に見ると、その印象は、後からじわじわと心にしみてくる作品です。ぜひ、実物を一度は鑑賞してみましょう。

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