哲学者アーレントが示した「我々の誰もが巨悪に陥る」危険性とは?

2019.10.10

2012年の映画『ハンナ・アーレント』は翌年の日本公開でもおおきな注目を集めました。映画では詳細に描かれなかった彼女の思想・哲学とはどんなものだったのか。『全体主義の起原』『エルサレムのアイヒマン』という2つの著作をもとに紹介します。

映画でも有名なハンナ・アーレントとは

まずアーレントの生い立ちとその政治哲学が生まれる背景から見ていきましょう。

ドイツ生まれのユダヤ人哲学者

ハンナ・アーレント(1906-1975)はドイツ出身のユダヤ人哲学者です。少女時代から活発で物怖じしない性格だったようで、授業をボイコットしたり、朝のコーヒーの習慣を守るためにギリシア語授業の欠席を学校側に認めさせたりといったエピソードが伝わっています。

大学では哲学を専攻し、ハイデガー、プルトマン、フッサール、ヤスパースといった哲学者たちから指導を受けました。またこの頃シオニストたちとも出会い、その政治思想にも感化されました。

亡命と、ホロコーストの衝撃

やがてドイツ国内でナチスが台頭すると、アーレントはユダヤ人の国外逃亡を援助する活動に従事し、1933年に当局に逮捕されたあとはフランスに亡命して、活動を続けました。

第二次世界大戦がはじまり、フランスがナチスドイツに占領されると、今度はアメリカに亡命。そこでアーレントは、何百万人というユダヤ人が絶滅収容所で大量虐殺されたという事実を知ります。

起こってはならないことが起こってしまった、人間はなぜこんなことができるのか?アーレントの政治哲学はこの疑問に答える形で形成されていきました。

『全体主義の起原』

アーレントはナチスによる大虐殺を、特別な指導者が起こした特別な事件とはみなしませんでした。これは誰にでも起こりうる、そう結論づけたのが彼女の主著『全体主義の起原』です。

反ユダヤ主義と人種思想

まずアーレントは、ナチズムが出現した背景として、19世紀の反ユダヤ主義と人種思想があると主張します。

反ユダヤ主義とは、昔からあったユダヤ人嫌悪の感情が、国民国家の成立によって「国家内の異分子に対する同化・絶滅志向」へと変化したもの。つまりユダヤ人も言語や文化をわれわれと共有しろ、さもなくば消えてなくなれ、というものです。

また人種思想とは、ヨーロッパがアジアやアフリカを植民地にする帝国主義を正当化するもの。つまり人間には種類があって優劣もまたあるから、白人の支配は正しいとするものです。

大衆はわかりやすい物語を求める

この反ユダヤ主義と人種思想を土台にして、全体主義を成立させる要素は何か。アーレントは、大衆社会・社会変動による人々の疎外感や閉塞感・心地よくてわかりやすい物語などがそうだと回答していきます。

とくに大衆の出現は全体主義のおおきな要因でした。なぜなら大衆とは政治に無関心で、自分の方向性を見失っており、いったん社会変動が起こると、この不安から救われたい一心で、世界を説明するわかりやすい物語を求めるからです。アーレントは「ユダヤ陰謀論」や「民族的ナショナリズム」を、その物語の例として挙げています。

『エルサレムのアイヒマン』

大衆が物語に惹かれて集まると、ただちにピラミッド型のヒエラルキーが形成されます。そこでは人は良識的な判断を停止し、無自覚に権力に従ってしまう、アーレントはこうも指摘しました。

ユダヤ人移送の責任者アイヒマン

1960年、元ナチス将校のひとりであるアドルフ・アイヒマンという人物が、アルゼンチンの潜伏先でエルサレム秘密警察によって拘束されます。アイヒマンは戦時中、ユダヤ人を絶滅収容所へ送りこむ責任者でした。翌年4月から公開裁判がはじまり、「人道に対する罪」などで彼は死刑となります。

この公判を、アーレントも傍聴しました。そして雑誌に連載で投稿したのが『エルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告』でした。

誰でもアイヒマンになりうる

著書のなかでアーレントは、アイヒマンがどこにでもいる優秀な役人で、出世欲のほかには特別な思想を持たず、組織の歯車のひとつとして、無自覚に忠実に仕事をこなしていただけだったことを報告します。悪の権化を想像していた彼女にとって、アイヒマンその人はあまりに平凡で、陳腐でした。

このことは我々だれしもが、誰かに言われた目の前のことを頑張っているだけでは、アイヒマンと同じくらいおぞましい悪行を犯してしまう可能性があるということを示唆しています。

アーレントは「政治において服従は支持と同じ」とアイヒマンを断罪しましたが、その一方で、誰にでもアイヒマンになりうるとした本稿の姿勢は、大論争を巻き起こしたのでした。

現代への示唆に富むアーレントの政治哲学

2017年1月、ドナルド・トランプ大統領が誕生したまさにその月に、アーレントの『全体主義の起原』はアメリカでベストセラーになりました。これはアーレントの思想・考え方が現代にも通ずると、多くの人が感じたからでしょう。

アーレントは、全体主義に陥らないためには考えることをやめないことだと言っています。いまなお示唆に富む彼女の政治哲学、そのあらましの簡単な紹介でした。

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