現代絵画の巨人・ピカソ。天才エピソードやいまさら聞けない代表作を紹介

2019.09.05

パブロ・ピカソ(1881年~1973年)は、スペイン出身でフランスで活動した画家・彫刻家です。新しい絵画様式であるキュビスムを生み出し、最も多作な画家としてギネスに記されるほど数多くの作品を精力的に制作しました。彼の代表作や、どんな人物だったのかをご紹介します。

空前絶後の天才ピカソ

ピカソは、スペインのアンダルシア地方で美術教師をしていた父親のもとに長男として生まれました。幼いころから芸術に親しんだピカソは、当然のごとく美術学校に入学すると、画家としての才能をメキメキと発揮していきます。

その才能の開花する速さは驚くべき程で、ピカソが13歳のとき、父親は自分の絵の道具を息子に譲り、以後は絵画を描かなくなったそうです。伝えられるところによれば、これは父があまりのピカソの画才に驚愕したため、脱帽の証として絵筆を絶ったのだといわれています。

日記を付けるように作品を制作した

そんな幼いピカソは、まるで毎日日記を付けるように、スケッチや油彩画などを次々と描いていたといわれ、大変多作で速筆の画家として知られます。また、バルセロナの美術学校に入学するときには、通常の学生が1か月かけて制作する入学製作を課題を受けてからわずか1日で完成させ、合格してしまうという驚くべき逸話もあります。

ピカソが描いたそれぞれの絵画には制作した日付の記録があり、驚くことに計2万点以上制作している計算になるそうです。さらに驚くのは、それらの作品が同じモチーフの模写や技法の練習といった類のものではなく、画風が日々刻々と変わっていくことです。ピカソは、そんな恵まれた才能を持ちながら、毎日のように新たな画風に挑戦し、進化し続けていたのでしょう。

めまぐるしく変化する作風

そんな大天才・ピカソは、16歳のときにはすでに数々の賞を受賞し、弱冠20歳にしてパリで個展を開くなど、恐ろしい速さで画家としてのキャリアを登っていきます。

ピカソの作風は、生涯を通じて転々と変化していくことで有名です。後年~晩年にかけてのキュビズム的様式のイメージが強いかもしれませんが、初期の写実的作品などを見ると、到底同じ人が描いたとは思えない程に違っています。

また、ピカソは移り気なプレイボーイとしても知られており、愛する女性が変わるたびに大きな飛躍を遂げ、作風も変わっていきました。ピカソは2回結婚し、正式な妻以外に3人の愛人がいました。

このように転々としたピカソの作風は、その後「青の時代」や「バラ色の時代」など10ほどの時代に区分されて呼ばれます。

ピカソの代表作

最も多作な画家ピカソ。凄まじいほどの作品数の中から、特によく知られている彼の代表作をご紹介します。

「科学と慈愛」1897年

16歳のピカソによる初めての大作。科学は医者、慈愛は修道女を表しており、2人が病室で床につく女性を囲んでいます。ゆったりと美しく、同時に物悲しさを感じる作品で、2年前に病死した妹への追憶が込められているといわれています。

技術的には、光の使い方やタッチなどに印象派の影響がよく見て取れ、この頃のピカソが印象派から学んでいたことがよくわかります。現在はバルセロナ ピカソ美術館に所蔵されています。

「アヴィニョンの娘たち」1907年

バルセロナの売笑街アヴィニョンの娘たちを描いたもので、ロマネスク彫刻、イベリア彫刻、エジプト絵画、黒人彫刻など古代や原始美術の影響がうかがえ、ピカソらしい情熱的なパワーを感じる作品です。また、後期印象派のセザンヌや野獣派のマティスなど近代の影響も指摘されています。

この作品はキュビズムの起点になったともいわれており、世間におけるピカソのイメージを強く決定づけることとなりました。10年前に描かれた「科学と慈愛」からは想像もつかない大胆な変貌といえるでしょう。現在ではニューヨーク近代美術館に所蔵されています。

「肘掛椅子に座るオルガの肖像」1917年

ロシア・バレエ団の舞台装飾を担当したピカソが見初めた踊り子、オルガ・コクローヴァ。ピカソは彼女にほれ込み、やっとの思いでパリに連れ帰ってきました。そんな愛するオルガを描いた作品です。

まるで新古典主義に回帰したかのようで、誰が観ても美しいオルガだとわかる写実的な美しい作品です。オルガはピカソの芸術スタイルに理解を示さなかったようで、自分がモデルとなるときには、それが自分だとわかるように美しく描いてくれと口出ししていたそうなので、この絵もそんなオルガの要望に応えたものだったのかもしれません。さすがの絵画の天才も、愛する人には嫌われたくなかったようです。

ちなみに、ピカソの恋はめでたく成就し、オルガはのちにピカソの最初の妻となりました。現在では、パリ ピカソ美術館に所蔵されています。

「夢」1932年

そんな情熱的な恋愛を経て結婚した妻・オルガとの関係は、やがて完全に冷え切ってしまいます。やがて移り気なピカソは、官能的な肉体を持つブロンドの娘、マリー・テレーズを見初めます。

そんなマリー・テレーズをモデルに描いた「夢」は、ピカソの愛情が現れたかのような温かみのある色使いと、豊かで女性的な身体のライン、まるで満足して眠っているかのような優しい表情が特徴的です。ちなみに、マリー・テレーズと関係が始まったのは、彼女が17歳、ピカソが45歳の時で、後に2人の間には子供が設けられています。現在ではニューヨーク ガンツ・コレクションに所蔵されています。

「ゲルニカ」1937年

ピカソの中でも最も有名な作品かもしれません。スペイン内戦のおり、ナチス・ドイツの空軍による爆撃で破壊されたスペインの小都市ゲルニカをテーマにした作品です。

ゲルニカは軍事都市ではなかったにもかかわらず、徹底的な爆撃により多くの罪なき市民の命が奪われました。諸説ありますが、町の70パーセントが灰になり、死者は3,000人にのぼったともいわれています。

ゲルニカの爆撃のニュースを知ってからわずか5日後、ピカソは憤然と制作に着手しました。ピカソは政治的には左翼・リベラリストで、反ファシズムであったといわれており、ファシスト政権の残虐な行為に抗議する目的でこの絵絵画を描いたのです。絵画全体から阿鼻叫喚が聞こえてくるような、見事な仕上がりになっています。現在ではマドリード ソフィア王妃芸術センターの所蔵となっています。

「泣く女」1937年

カメラマンで画家のドラ・マールをモデルにした作品です。愛人関係にあった彼女は「ゲルニカ」の制作過程の記録を撮っています。「泣く女」は、ゲルニカの完成後に描かれました。

ピカソの別の愛人マリー・テレーズやフランソワーズ・ジローをライバル視して、彼女らには娘がいるのに、自分には子供ができずによく泣いていました。また、そのことに限らず感情を爆発させるタイプだったようで、愛人同士ピカソのアトリエで取っ組み合いのけんかをすることもしばしばだったそうです。

この絵画のモデルとなったドラ・マールが、どういう理由で泣いているのかは定かではありませんが、もしこれがピカソの放埓に対する嫉妬の涙だとしたら、モデルにするのは少し酷な感じがしますね。現在では、ロンドン テート・モダンに所蔵されています。

ピカソに関連する映画作品

ピカソの生涯や、彼が愛した妻が愛人との遍歴を描いた映画。また、ナチス・ドイツがヨーロッパ各地で芸術品を強奪したドキュメンタリーをご紹介します。

「サバイビング・ピカソ」1996年

ジェームズ・アイヴォリー監督のイギリス映画です。「羊たちの沈黙」を演じたアンソニー・ホプキンスがピカソの生涯を演じて話題となりました。

ピカソは生涯7人の女性を愛しました。その中の一人フランソワーズ・ジローに焦点を当てています。数かすの愛人の中で彼女だけがピカソを捨てたというエピソードは有名です。フランソワーズはナターシャ・マケルホーンが演じ、彼女のデビュー作となりました。

「ヒトラーvs.ピカソ 奪われた名画のゆくえ」2019年

1933年から1945年にかけて、ナチス・ドイツがヨーロッパの芸術品を各地で強奪した総数は60万点以上もあるといわれています。ヒトラーが画家志望であったことや、今でも行方が分からない作品もあるということを取材したドキュメンタリーです。

鳩を愛した巨匠

絵は壁に飾るためのものではなく盾にもなる。絵は戦う手段でもあるということをピカソは「ゲルニカ」で表現しました。彼は鳩が生涯の友だちで、妻でさえアトリエには入れませんでしたが、鳩は特別でした。鳩は平和の象徴でもあり、娘の名前にもパロマ(鳩)と付けています。平和を愛したピカソは91歳の天寿を全うするまで絵筆を止めませんでした。

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