今さら聞けない。日本が世界に誇る偉人「野口英世」の生涯と功績とは?

2019.08.17

ノーベル医学賞の候補に3回もなった野口英世。子ども向けの伝記などで繰り返し紹介されてきたその生涯は、知っている人も多いのではないでしょうか。この記事では、野口英世の生涯を、多くの人々に支えられた前半生と医学の重要な功績を残した後半生に分けてご紹介します。

重要人物から辿る野口英世の前半生

貧しい農家に生まれ、幼くして障がいを持つことになった野口英世は、その前半生で数多くの重要な出会いに恵まれ、世界的な医学者の道を歩み始めました。

貧しい家庭を支えた母シカ

1876年、現在の福島県猪苗代町に生まれた野口英世の家では、怠け者の父親に変わって、母のシカが一家の大黒柱でした。シカが畑仕事をしているときに囲炉裏に落ちた英世は、左手に大やけどをします。15歳の頃、その左手を治療する手術を受けたことが、英世が医師を目指すきっかけとなりました。のちに英世がアメリカから一度だけ帰国した際、親孝行ができたことを喜んでいます。

次の千円札の顔 北里柴三郎

高等小学校卒業後は地元の医院では書生として、東京に出た後は高山歯科医学院で用務員をしながら医学を学んだ英世は、見事、医師の国家試験に合格します。その後、細菌学の勉強をするために入ったのが、北里柴三郎が所長をつとめる研究所でした。北里柴三郎は、英世に細菌学の基礎を教え、その実力を認め、渡米に際して何通もの推薦状を書いたそうです。2024年から英世に替わって新千円札の顔となる人物です。

アメリカの恩師フレキシナー博士

日本を訪れたフレキシナー博士の通訳をつとめた英世は、アメリカ留学を決意します。フレキシナー博士は、フィラデルフィアを突然訪問した英世を私設秘書として受け入れ、研究費の獲得やデンマーク留学の実現など様々な支援を与えてくれました。帰米後にも、博士が所長をつとめたロックフェラー医学研究所に席を用意し、黄熱病で亡くなった英世の棺が戻ってきたときにも日の丸の旗を立てて迎えたそうです。

功績から辿る野口英世の後半生

アメリカへ渡ってヘビ毒の研究に熱中し、デンマークで学位を取得した野口英世は、いよいよ医学界にその名を残す偉業を成し遂げていきます。

梅毒菌の培養に成功

デンマーク留学から戻った英世は、梅毒菌の研究に取り組み、その純粋培養に成功します。つづいて、梅毒菌が精神病患者の脳に存在することを探り当て、肉体の疾患と精神障がいが同じ原因から生じうることを明らかにしました。この成果によって、英世は世界的な医学者として認められ、ノーベル賞候補にもなりました。

黄熱病の病原菌を発見

梅毒菌の成果が認められた日本への一時帰国を果たしますが、すぐに南米で流行していた黄熱病を研究するためにエクアドルに渡り病原菌を発見し、ワクチンによって多くの患者を救います。現在では、英世が見つけた病原菌は黄熱病によく似た症状を引き起こすワイル氏病のものだったとされています。英世はその後も研究を続け、黄熱病が新たに流行したガーナへ渡ると自らも黄熱病に倒れ、51歳という若さで亡くなってしまいますが、人生をかけて挑んだ数々の研究の成果はまさに偉業と言えるものだったことは言うまでもありません。

野口英世は本名ではない?

野口英世の本名は、もともと清作と言いました。東京に出て遊蕩を覚えた頃、坪内逍遥の『当世書生気質』を手に取ると、医学を志しながら酒と女に溺れる主人公の名前がなんと野々口精作であったことに驚きます。そのため、英世は、小学校時代の恩師に新しい名前をもらうと、同じ村にいた清作という名の別人に野口家へと養子に入ってもらい、「同じ村に同姓同名が二人いるのは紛らわしい」という理由をつけて正式に改名してしまったそうです。

記念館やお墓 ゆかりの場所を訪ねて

アメリカでも日本でも野口英世の功績は讃えられ各地に銅像が残っています。そんな英世の墓は、アメリカはニューヨークのブロンクス、そして遺髪をおさめた墓は故郷の猪苗代町にあります。猪苗代町には野口英世記念館が、会津若松市には書生をしていた医院などが残っていますので、福島を訪れた際には偉人のゆかりの地を訪ねてみてはいかがでしょうか。

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